国際社会ではなぜ日本の影は薄いのか
前回に続いて英検ネタですが、英検を受験勉強していて思ったことがあります。TOEIC受験ではあまり気を使わなかったのですが、今回の学習では特に文法に気をつけて勉強しました。不定詞や分詞構文、仮定法、関係代名詞...。ちゃんと意識して勉強すると、不思議なことに日ごろ見慣れた英語サイトの英文も違った見方ができるようになりました。
逆に言えば、今までは文法を意識することなくなんとなくやってきてしまったわけで、TOEICが600くらいで停滞していた原因はココにもあるのではないだろうか、と思ったりしました。
改めて言語としての日本語を考え直すのですが、日本語というのは主張を行うにはあまり適してないように感じます。主語はあいまいだし、述語は一番最後にくるので、話を最後まで聞かないと話者の意味を汲み取りづらいという難点があります。(ここら辺はよく言われている話)
利点は「空気読め」が通じてしまうところで、すべてを言葉で言わなくてもなんとなく通じるところです。しかしこういう雰囲気が人間関係の中でできるまで、日本人の会話が初対面の建前レベルで大変ぎこちなくなるのは、ここら辺に原因があるのかもしれません。
普通に生活していれば人前で話す機会はあまり無いですし、仮にあったとしても、結婚式のスピーチに見られるような一般人のスピーチの下手さぶりは判で押したかのようです。
方や英語ですが、はっきりと物事を主張しやすいように思います。特に物事を言い切る場面で、日本語で「私は...」「私は...」と続くと受け手が引いてしまう印象がありますが、逆に英語では「I think...」「I can ...」という感じで話し手が主張を続けることに違和感はあまり感じません。主語がない文章は無いし、「私」を隠すために「We think ...」などとすることも少ないように思います。
昨日、以前録画しておいた英語ドラマの「セックスアンドザシティー」を見ていてパーティの場面がありましたが、あちらの人はよくパーティーをやるようです。勤務先の米国法人に出張したときに言われたのも「本当にアメリカ人はパーティ好きだよ」とのことでした。ドラマの場面にもあったように、米国人は他人と躊躇無く話をすることには慣れているようですが、一方私たち日本人は、初対面の人同士のパーティなどという機会はほぼ無い上に、あったとしても何かゲームなどの媒介がなければ話をすることもないと思います。
こうした考察から日本語というのは「きわめて内向きの言語」だと改めて実感したのです。知った仲同士での会話では非常に効率的であるのですが、外への広がりはありません。方や、英語は多数の国で話される言語であるという側面からも全てを言語化する必要があります。そのため、簡単なことまで説明しなければならない冗長性があります。しかしそのためもあってか、主語述語がはっきりしている文構造から見ても、英語は「外向けに主張し易い」と感じます。
日本は「国際社会で主張をしなさすぎる」という批判はよく聞く話ではありますが、それは日本語自体が「主張することに適してない、または、しにくい」といった性質をもっているためであり、「国際社会の主言語である」英語とは文の構造のみならず、言語のバックグラウンドとしてもかけ離れているためだと思います。
そう考えますと、樋口 裕一 氏がいう「論理的な思考」を日本語で構成するのは実は難しいことだと思います。著者の本を一冊読みましたが、内容はリンク先の記事と同様の内容でした。
私を含め多くの日本人が「主張すること」や「論理的に話をすること」が苦手だと感じていますが、それが言語体系の違いに起因するとするならば、著者の言うところの
しかし最近では、きちんと文章にしたり、口に出さないと相手に伝わらない時代になっているとも言えます。
日本人同士ならそういう「無駄な」プロセスを省略可能だったのに、諸外国との関係の比重が以前と比べて非常に大きくなってきたために、そういう「無駄」をあえてやらなきゃならなくなってしまった、というのが本当のところじゃないでしょうか。
とはいえ、一番身近な英語という外国語を理解することは、日本語の良さや悪さを理解することになると思います。このような理解は、たとえ英語で文章やスピーチをする機会は無くても、日本語による「論理的な思考」での文章力やスピーチ力を増すと思いますし、いろいろな場面で必要とされる「相手に伝える」能力は鍛えられるのではないかな、と思っています。
だから私はこれからも英語学習を続けたいと思っています。